第八話
ホントの金太郎
熊と相撲をとった怪力の少年。
その「強さ」を、現実の体で量ってみる。
原作
むかしむかし、足柄山の山姥に生まれた赤い肌の子。
誰もが知っているあの物語を、まずはそのままで。
むかしむかし、相模国(さがみのくに)の足柄山の奥に、山姥(やまうば)と呼ばれる女がひとり、ひっそりと住んでおりました。あるとき、山姥に男の子が生まれました。生まれたときから、肌は紅葉のように赤く、声は山に響くほど大きく、力はおっそろしく強い男の子でした。山姥はその子に「金太郎」と名づけ、山の奥で大事に育てました。
金太郎はぐんぐんと育ち、五つ六つになるころには、もう大人の侍も持ちあがらないような大きな斧(まさかり)を、ひょいと振りあげて遊ぶようになりました。腰には赤い前掛け、胸には金色の「金」の字。山の道をのっしのっしと歩く姿は、もうそれだけで小さな大人のようでした。
金太郎の遊び相手は、村の子どもではありません。山に住む動物たち——熊、鹿、猿、兎、狐——みんなが、金太郎の友達でした。とくに大きな黒い熊は、金太郎のいちばんの相撲の相手。「熊どん、勝負じゃ」「よっしゃ、金太郎」。土俵代わりの草地で、ふたりはどしんどしんとぶつかり、たいていは金太郎が、熊をひっくり返してしまうのでした。
ある日、金太郎は仲間たちを引き連れて山道を歩いておりました。ふと見ると、川向こうへ仲間の鹿が渡れないでいます。「よし、橋をかけてやろう」と金太郎は、大きな倒木を一本、片手でひょいと持ちあげ、岸から岸へ、まっすぐに渡してやりました。渡された木は、見事に立派な橋となり、鹿はぴょんぴょんと渡っていきました。
そんなある日のこと。山道を、立派な装束の武者が一行を率いて通りかかりました。これは京の都の名高い武将、源頼光(みなもとのよりみつ)さま御一行です。頼光さまは、山の中で熊と相撲をとっている赤い肌の少年の姿を見て、たいそう驚きました。
「これはまた、ただ者ではない。ぜひ、わが家来に加えたい」。頼光さまは金太郎に声をかけ、山姥の母にも頼みこんで、金太郎を都へ連れていくことになりました。山姥は涙をこらえながら、息子を送り出しました。動物たちも、山の端まで金太郎を見送りました。
京に上った金太郎は、立派な侍として元服し、「坂田金時(さかたの きんとき)」という名を授かりました。やがて頼光さまの四人の腹心の家来——「頼光四天王」のひとりとなり、丹波の国の大江山にすむ、人を喰らう恐ろしい鬼の頭領「酒呑童子(しゅてんどうじ)」の退治にも、立派な働きをしたといいます。
赤い肌の山の子は、こうして都でも名高い武将となり、後の世まで「金太郎」「金時」の名で語り継がれることとなりました。
めでたし、めでたし。
科学ツッコミ
待ってください。
子どもが熊に、勝てますか。
熊との相撲、動物の友、山姥に育てられた生活、坂田金時の実在性。生物・行動学・歴史の観点から、ひとつずつ量ってみる。
-
生物
子どもが熊と相撲をとって、勝てる?
金太郎の代名詞ともいえる「熊との相撲」。生き物として、人間の子どもが熊に組みついて勝つことは可能なのでしょうか。
検証
日本本土に棲むツキノワグマは、成獣で体重80〜130キロ、肩幅は子どもの両手を広げたほど。北海道のヒグマは200〜400キロにもなります。ヒトの子ども(6歳)はだいたい20キロ前後ですから、ツキノワグマでも5〜6倍、ヒグマだと10〜20倍の体重差です。
力比べはもっと不利です。熊の前肢の打撃力は、ヒトの全身全力の数倍。咬合力もヒトの3〜6倍ある。爪は刃物のように鋭く、皮膚を引き裂きます。組み合った時点で、子どもは数秒で重傷、というのが現実の野生動物との接触事故の記録が示すところです。
※ 物語の「熊との相撲」は、ありえないからこそ「金太郎は常識外に強い」を一発で伝える装置。実際に試みてはいけません。
-
行動学
熊・鹿・猿・兎が、ひとりの子どもの「友達」になる?
金太郎の遊び相手は山の動物たち。熊と相撲、鹿と駆けっこ、猿と木登り、兎とかくれんぼ。動物行動学から見ると、これは成立するのでしょうか。
検証
動物の社会性は種ごとに異なります。熊は単独で行動する種で、群れも他種との社会的な関わりも、本来もちません。鹿は群れる草食動物で、人間や肉食獣を警戒対象として強く識別します。猿(ニホンザル)は群れ社会をもち、人慣れする個体もいるが、攻撃性もあります。これら異なる本能をもつ動物が、ひとりの人間の子を中心に「仲間」を形成するのは、自然界の通常状態ではありえません。
ただし、人間と特定の動物個体の長期接触で、強い信頼関係が築かれる例はあります(飼育されたヒグマと飼育員、孤児の動物と人など)。これは「友達」というより「刷り込み」「人馴れ」「相互馴致」と呼ばれる現象で、種を超えた小さな共生関係です。
※ 物語の動物たちは、金太郎の「孤独でない山の暮らし」と「自然の支配者ぶり」を象徴する役割を担っています。
-
栄養
山姥と二人、山中の暮らしで、栄養は足りるのか?
山姥は山の奥に住み、文化的な村との交わりもほとんどないという設定。育ちざかりの男の子の栄養を、山だけで賄えるのでしょうか。
検証
育ち盛りの子ども(6〜12歳)は、1日およそ1,500〜2,200キロカロリーを必要とします。山の幸(山菜・キノコ・木の実・川魚・狩猟肉)でこれを賄うには、十分な狩猟採集の知識と労力が要りますが、不可能ではありません。マタギや山伏など、山中で長く生活してきた人々の伝統がそれを証明します。
むしろ栄養バランスは、思いのほか良好になりえます。栗・くるみ・どんぐり粉などで炭水化物と良質な脂質を、ヤマメ・イワナ・キジ肉などでタンパク質を、山菜とキノコでビタミン・ミネラルを、と組み合わせれば、現代栄養学的にも合格点。
※ ただし「平均」では足ります。冬期や凶作年の備えがどれだけあるかが鍵で、これが伝統的な山の知恵——干物・塩漬け・木の実の貯蔵——として発達しました。
-
歴史
坂田金時は、実在の人物なのか?
金太郎は元服して「坂田金時」と名乗り、源頼光の四天王のひとりになります。この人物、歴史的にどこまで実在するのでしょう。
検証
源頼光(948〜1021)は実在した平安時代中期の武将で、清和源氏の流れを汲み、摂関家に仕えました。彼の腹心の家来「頼光四天王」(渡辺綱・坂田金時・卜部季武・碓井貞光)も、平安・鎌倉期の説話集や軍記物に名前が見えます。
ただし、坂田金時を「歴史的に厳密に証明できる人物」とみなすのは難しい。当時の公文書に明確な実在記録があるわけではなく、後世の物語(『今昔物語集』『御伽草子』など)で創られた・脚色された存在の可能性が高い。一方で「足柄山に怪力の男児がいた」という伝承自体は、平安後期にはすでに地方説話として広まっていた、と民俗学では考えられています。
※ つまり「金太郎」は、地方伝承+朝廷の英雄譚+御伽草子の翻案、が長い時間をかけて重なってできた、半ば実在・半ば伝説の人物像といえます。
-
文化
「強い男の子」金太郎は、なぜこれほど愛されてきた?
金太郎は五月人形、金太郎飴、童謡、駅名(金時山)……日本人の生活のいたるところに、その姿を残しています。なぜでしょう。
検証
- 端午の節句(こどもの日)と五月人形:江戸時代、男の子の健やかな成長を願う節句に「健康で強い子」の象徴として金太郎の人形が飾られました。鎧兜と並ぶ定番の意匠。
- 金太郎飴:どこを切っても顔が出る飴。江戸期の飴細工職人が「お子さまにわかりやすい英雄」として顔を採用したのが定着しました。
- 童謡「まさかりかついで金太郎」:1900年(明治33年)作詞・石原和三郎、作曲・田村虎蔵。「熊にまたがり、お馬の稽古」という歌詞で、子どもに親しまれる定型を作りました。
※ 強さと素朴さ、自然との一体感、そして「立身出世」の物語。金太郎は、近代日本が好んだ「男の子の理想像」のすべてを兼ね備えた人物として、繰り返し再生産されてきました。
以上、5つの科学的ツッコミを入れてみた。まとめると——子どもが熊を投げるのは物理的に不可能、異種の動物が「友達」になるのは本能上ほぼない、山中の自給生活は工夫次第で可能、坂田金時は半ば実在・半ば伝説、そして「強い男の子の理想像」は近代以降の再生産で定着してきた。
では、これらを全部「現実」に落としこんだら、金太郎はどんな話になるのか。次のパートで答えを出す。
リアル版
山を下りた、本当のこと。
現代日本、群馬の山あいの集落。山小屋で育った巨漢の少年が、ある日、都の土俵に立つまで。
一 山小屋の母子
群馬県の北部、人口三百人ほどの山あいの集落。金田剛(きんた つよし)は十九歳になる年の春、相変わらず母と二人で、山の中腹の古い山小屋に暮らしていた。母の静子は林業の家業を継いだ、五十代の小柄な女性だ。父は十年前、山岳救助隊員として遭難救助の最中に亡くなった。
剛は、母と並ぶと、まるで親子と思えないほどの大柄。身長百九十センチ、体重百五十キロ、肩は雪をかぶる岩のように張り、肌は山の日射しで赤い。村では「金田の剛さん」と、もう小さい頃から呼ばれていた。
二 山の友達
剛の幼なじみは、人ではなく、家の作業犬「ベン」だった。秋田犬の血を引く大型犬で、剛とほとんど同じ年に生まれた。山の散歩、林作業、雪掻き、いつも一緒。ベンは剛が斧で薪を割るリズムに合わせて、傍らで小さく尾を振る。
不思議なもので、剛が山道を歩いていると、ニホンジカも、たまに出るタヌキも、めったに逃げなかった。「あの子が来ると、獣が騒がない」と母は笑っていた。剛は動物のことばを話せるわけではない。ただ、山に育って、山の音と気配を自然に身につけていたのだろう。
三 スカウト
その年の夏、山あいの古い宿に、東京の相撲部屋「楓部屋」の若い親方が、休暇で泊まりに来ていた。たまたま剛が、宿の裏手で倒木を斧で割っているのを見た。一振りで丸太がきれいに二つに割れる。親方は思わず声をかけた。「あんた、相撲、やったことあるかい?」
剛は、中学のとき町の大会で少しだけ。それきりだった、と答えた。親方は剛を縁側に座らせ、握手の力を測り、体重計に乗せ、しばらく黙ってから言った。「東京で、稽古を受けてみないか。あんたは、ふつうじゃない」。
四 部屋入り
母は、しばらく黙ってから「行きなさい」とだけ言った。父も、若いころには山を下りるかどうか迷ったときがあった、と聞かされた。「山は、いつでも、ここにある」。
剛は楓部屋に入門した。最初の三月は雑用ばかり、田舎者扱い、東京の電車の方向が分からず迷子になりかけ、何度も泣きそうになった。けれど、稽古場の土俵に立つと、誰も剛を投げられなかった。立ち合いの一秒、相手が剛の胸にぶつかると、まるで岩にぶつかったように弾かれた。
五 四股名
半年で前相撲を抜け、序ノ口、序二段と勝ちあがり、二年後には幕下にあがった。四股名は「金時山(きんとき ざん)」——足柄山の金太郎にちなんで、親方が選んでくれた。本場所の解説では「群馬の山男」「現代の坂田金時」と呼ばれることが増えた。
もちろん負けることもあった。技術と経験のある関取に、当たり負けすることも、土俵際でひっくり返されることも。けれど剛は、土俵を割ったあと、必ず深く一礼して、足どりをしっかりと、自分で取り直してから引いた。それを見ていた解説者が、テレビで「あの子は、勝ち方より、負け方が、いい」と言ったことがある。
六 帰省
場所が終わって、十日間の休みをもらった月、剛は群馬の山に帰った。バス停から山小屋までの坂道、ベンがすでに庭で待っていて、昔のように尻尾を一回だけ、ぶんと振った。
母は煮物をいつもの倍、鍋いっぱいに作っていた。夕食の後、母と二人で、北の斜面にある父の墓まで歩いて、線香をあげた。「お父さんに、テレビ見せたかったね」と母は言った。「うん」と剛は短く答えた。
「熊と相撲は、ようとらん」と剛は、墓のうえに山を見上げて言った。「でも、土俵では、ようとっとるよ」。
明日、東京へ戻る。剛は朝の山道で、ふだんの一日の倍の薪を割り、母の冬の蓄えをひと月分こしらえてから、ベンの頭を一度なでて、山を下りた。
了