第六話
ホントのつるの恩返し
見るな、と言われた部屋には何があったのか。
一羽の鶴と、一人の人と、もう一度向き合ってみる。
原作
むかしむかし、罠にかかった一羽の鶴を助けた。
誰もが知っているあの物語を、まずはそのままで。
むかしむかし、雪深い山あいに、おっかさんと二人で暮らす、心のやさしい若者がおりました。
ある冬の夕暮れ、若者が街道の脇を通りかかると、藪の中でなにかが、もがいています。近づいてみると、罠にかかった一羽の鶴。雪のうえに翼を打ちつけて、苦しそうに鳴いておりました。
「かわいそうに」と若者は罠の縄をていねいに解いてやり、「もう人里には近づくでない」と空へ放してやりました。鶴は若者の上を二度三度旋回して、北の空へ飛んで去りました。
その晩のことです。外は世界を真っ白に塗りつぶすほどの吹雪。若者の家の戸を、コツコツと叩く者がありました。
戸を開けると、雪に濡れた一人の若い娘が立っております。「道に迷いました。一晩、お宿を貸していただけませんか」。若者は娘を中へ通し、囲炉裏で温めてやりました。
あくる朝、雪はやまず、娘は出ていけません。次の日も次の日も、雪は降りつづけました。三日目、娘は若者と母親に手をついて言いました。「行くあてのない身でございます。よかったら、ここに置いてくださいませんか」。
気立てがよく、よく働く娘でした。やがて娘と若者は心を通わせ、夫婦になりました。
ある日、娘は若者に言いました。「奥の部屋で、わたくしは布を織ります。三日のあいだ、決して中をご覧にならないでください」。若者は約束しました。
三日のあいだ、奥からは機(はた)を踏む、トン、カラリ、トン、カラリという音だけが、絶え間なく聞こえました。三日目の晩、娘は薄い紙のような、けれども今まで見たことのない、はっとするほど美しい反物を抱えて出てきました。
若者がその反物を町へ持っていくと、呉服屋は目を丸くして、たいそうな値で買いとってくれました。家には久しぶりにお米が積まれ、囲炉裏には湯気が立ち、母も嬉しそうでした。
「もう一反、織ってもらえないか」と若者は娘に頼みました。娘は静かに頷き、ふたたび奥の部屋にこもりました。けれど、出てきた娘は、前よりも、頬がこけて見えました。
三反、四反と織りあがり、家は豊かになっていきました。けれど娘の体は、目に見えて細くなっていきました。若者はだんだんと不思議が募り、心配にもなり、——とうとう、堪えきれずに、奥の部屋のふすまを、そっと開けてしまったのです。
そこにいたのは、痩せ細った一羽の鶴でした。自分のくちばしで、自分の翼の羽根を一本ずつ抜いては、糸として機に織り込んでいるのです。床には抜けた羽根の白いかすかな筋。雪のように、ただ、白いだけ。
鶴は気配で振り返り、若者と目が合いました。「とうとう、御覧になりましたね」と、人の言葉で、静かに言いました。
「わたくしは、雪の街道で助けていただいた、あの鶴でございます。ご恩を返したく、姿を変えてまいりました。けれど、姿を見られたからには、もう、ここにはおられません」。
鶴は機を離れ、残った羽根を整え、戸を開けて吹雪のなかへ進みました。一度、若者と母の方を振り返り、深く、深く、お辞儀をして——ふわりと空に舞いあがり、雪の北空へ、飛んで去ってゆきました。
——おしまい。
科学ツッコミ
待ってください。
鶴が、布を織りますか。
姿を変える生き物、羽根で織る布、見るなのタブー。生物・民俗・物理の観点から、ひとつずつ覗いてみる。
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生物
鶴が、人間の娘に化ける——生き物として、ありえる?
助けた鶴がその晩、若い娘の姿になって戸を叩く。物語の根幹をなす設定ですが、生物としては可能なのでしょうか。
検証
鶴(ツル目ツル科)と人間(霊長目ヒト科)は、進化系統樹のうえで最後の共通祖先まで約3億年もさかのぼる、遠い遠い親戚です。骨格は中空で軽い鳥の体(飛ぶための極端な軽量化)と、二足歩行・大きな脳を持つ人間の体は、設計思想がまったく違います。DNAも、臓器も、代謝も別物。鶴がそのまま人間になることは、現代生物学では完全に不可能です。
仮に「魔法で変身」したとしても、質量保存の法則が壁になります。タンチョウの体重は約10kg、人間の女性は50kg前後。差の40kg分の物質は、どこから湧くのか。物質を生むには莫大なエネルギー(E=mc²)が必要で、それは原爆級です。
※ 「異類が人間の姿で現れ、人と暮らす」というのは、世界中に共通する物語のモチーフ。生物的事実というより、「人ではないもの」を物語に立ち上げる装置です。
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生物・材料
鳥の羽根で、本当に布が織れるか?
娘=鶴は自分の羽根を抜き、糸として機に織りこんでいました。羽根は布の材料として、本当に成立するのでしょうか。
検証
鳥の羽根の主成分はケラチンというタンパク質で、ヒトの髪や爪と同じ仲間です。羽根の中央には硬い「羽軸(うじく)」、左右に枝分かれする「羽枝(うし)」、その羽枝同士を引っかける小さな「小羽枝」が並んでいて、全体として薄く強い構造をつくります。空気を逃さないことが第一の役割で、撚(よ)って糸にする目的にはまったく向きません。羽軸は折れやすく、羽枝は短すぎる。
絹や綿が織物として完成度が高いのは、繊維が「細く・長く・撚れる」性質を持っているから。羽根はそのどれも満たしません。歴史的にも、貴重な鳥の羽根を「織りこんだ布」は、実用の織物としてはほぼ存在せず、布のうえに装飾として「縫いつけた」例ならアジア・アンデスなどにあります。
※ ダウンジャケットなどの中綿として鳥の羽毛は使いますが、これは「詰める」ものであって「織る」ものではありません。
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物理・数学
一羽の鶴の羽根で、何反の布が織れる?
物語の鶴は、何反もの反物を織りつづけました。素材量として、これは足りるのでしょうか。
検証
タンチョウの羽根は、おおよそ8,000本前後、総重量にして200〜400グラムほどといわれます。一方、着物一着ぶんの反物(一反)には、糸の量で600〜800グラムが必要です。仮に羽根がそのまま糸として使えたとしても、一羽分の羽根では一反にすら届きません。
物語では何反も織られている描写があります。「鶴が痩せていく」のは、量として現実にもありえる帰結——けれど、撚れない羽根を物理的に布に変えることはできません。物語は、生物学とも材料工学とも別の地平で語られています。
※ つまり物語の反物は、「鶴の羽根」というより、「鶴が自分の身を削って差し出した何か」を象徴する存在。素材ではなく、贈与の物語です。
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民俗・心理
「見るな」と言われると、どうして見たくなる?
娘の「決して中をご覧にならないでください」。約束は破られ、悲劇が起きる。このパターンは世界中の物語に繰り返し現れます。
検証
民俗学では「見るなのタブー」と呼ばれ、世界中の神話・民話に広く分布する型として知られています。
- パンドラの箱(ギリシャ神話):開けてはいけない箱を開け、災いが解き放たれる。
- オルフェウスの冥府下り:振り返ってはいけないと言われて振り返り、妻を永遠に失う。
- 旧約聖書のロトの妻:振り返るなと言われて振り返り、塩の柱に。
- 玉手箱(前話「浦島太郎」):開けるなと言われて開け、白髪の老人に。
共通するのは「禁じられると、かえって知りたくなる」「知ってしまうと、もう取り消せない」という、人間に普遍的な心理。物語の禁忌は、その普遍性を借りて、悲劇を必然のものに見せています。
※ 心理学では「カリギュラ効果」とも呼ばれます。「見るな」と言われた瞬間、見る理由が生まれてしまう——という認知のクセです。
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文化・歴史
「動物と結ばれる」物語が、日本にこれほど多いのはなぜ?
鶴女房、雪女、狐女房、蛇女房、犬婿入り——日本には「人と異類が結ばれる物語」が驚くほど多くあります。なぜなのでしょう。
検証
これら一群の物語は、民俗学で「異類婚姻譚(いるいこんいんたん)」と呼ばれます。日本に多いのは、自然のなかに神を見る古いアニミズムが、長く生活感覚として残ってきたためと考えられています。山も川も動物も、人の隣にいる「もうひとつの隣人」だった。結ばれる、別れる、という人間関係の枠組みで、自然との交わりが語られたのです。
つるの恩返しの直接の文学的決定打は、1949年に発表された木下順二の戯曲『夕鶴』。「与ひょう」と「つう」の物語として広く知られるようになり、能や民話の素材としても定着しました。それ以前から日本各地に類話はありましたが、現在多くの人がイメージする「つる女房」像は、夕鶴の影響を強く受けています。
※ 異類婚姻譚の多くは別離で終わります。なぜなら、異界の存在と人とは、本来そばに居つづけられない——というのが、語り手たちの共通の感覚だったからです。
以上、5つの科学的ツッコミを入れてみた。まとめると——鶴が人に化けるのは生物学的に不可能、羽根は撚れず糸にならず素材量も足りない、けれど「見るなのタブー」は世界中の物語に共通する人間の心理装置、そして異類婚姻譚は自然と人の境界を語り続けてきた古いジャンルだった。
では、これらを全部「現実」に落としこんだら、つるの恩返しはどんな話になるのか。次のパートで答えを出す。
リアル版
織りつづけた、本当のこと。
現代日本、北陸の雪深い山あい。小さな織元と、雪の夜に倒れていた人の物語。
一 雪の夜の女
北陸の山あい、人口数千人の小さな町。鶴田直介(つるたなおすけ)は三十五歳、町外れで「鶴田機店」という小さな織元を営んでいた。三代続いた家業だが、機織りの需要は年々細っていく。両親はすでに亡く、独り身だった。
その年の二月、稀にみる豪雪の夜のこと。直介が店じまいをしてから様子を見にゆくと、町外れの旧街道の脇に、一人の女性が雪に半分埋もれて倒れていた。意識は朦朧、唇は青い。直介は背負って家へ運び、医者を呼んだ。
二 佐倉綾
翌朝、女性は目を覚まし、「佐倉綾(さくらあや)と申します」とだけ名乗った。歳を尋ねると、はっきり答えなかった。来歴も、家族のことも、語りたがらなかった。
「行くあてが、しばらくありません」と綾は言った。「ご迷惑でなければ、置いていただけませんか」。直介は迷ったが、医者が「外に放り出すには弱りすぎている」と言ったし、屋敷には使っていない離れの部屋もあった。
綾は静かな人だった。けれど、工房に置かれた古い高機(たかばた)を見るなり、目を細めた。「使われていないのですね」「ご注文がほとんどなくて」と直介が言うと、綾は「私、織りができます」とだけ答えた。「お礼に、織らせてくださいませんか」。
三 奥の部屋
綾は奥の機織り部屋にこもり、一日のほとんどを織りに費やした。最初に、こう告げられた。「私が織っているところは、決して見ないでください」。
直介は職人の流儀かと思い、ふすまの外で待った。何日かしたあと、綾が織り上げた反物が出てきた。模様こそ古典的だが、糸の細さと締まりが、これまで見たどんな反物とも違っていた。直介は京都の馴染みの問屋にそれを持ち込んだ。問屋は反物を広げて、しばらく口を開かなかった。「これは——いったいどなたが」「うちで織っています」「とんでもない値がつきますよ」。
四 反物
注文が舞いこむようになった。「鶴田機店の織」は、京都の上得意筋のあいだで小さな評判になった。綾はひと月に一反、ときに二反を仕上げた。直介は綾の食事をていねいに整え、暖を絶やさず、薬が必要なら町の薬局まで走った——綾は、明らかに、痩せていっていたから。
直介はある日、おそるおそる尋ねた。「あなたは、何か、抱えていらっしゃいますね」。綾は長い沈黙ののち、うつむいて、「もう少しだけ、織らせてください」とだけ答えた。
五 覗いた夜
冬がふたたび巡ってきた年の晩、奥の部屋から、咳がやまなかった。何度も、何度も。直介は耐えきれず、ふすまをそっと開けた。
綾は機の前に座っていた。腕は震え、頬は紙のように白く、唇に血の気がない。膝のうえには、抜けた髪の毛が、細い糸のようにいくすじも落ちていた。綾は、自分の体力と髪と、もしかしたら命そのものを、糸と一緒に機に織りこんでいた。
「見ないで、と申し上げたのに」と綾は静かに言った。「あなたが知れば、織らせてくださらなくなるから」。
綾は若いころから、進行性の血液の病を持っていた。実家とは事情があって絶縁状態。残された時間で、何かを残したかった——それが、織だった。
六 羽衣
直介はその夜のうちに、町の医師を介して、市内の専門病院へ連絡をとった。翌朝、綾はそこへ移った。「織りは、しばらくやめてください」と直介は言った。「織りは逃げません。私が留守を守ります」。
綾は病院で治療を受けはじめた。直介は工房を閉めず、綾が機に残していった経糸(たていと)に、自分の不器用な手で、毎日できるだけのことをし続けた。問屋へは「織り手が体調を崩していて、しばらく新しい品は出せない」と告げた。問屋は「待ちます」と言った。
季節がいくつか過ぎた。綾の病は完全には治らなかったが、進行は緩やかになり、外を歩けるまでに体力を戻した。退院した綾は、ふたたび鶴田機店の戸を叩いた。直介の織り部屋には、綾の機の隣に、もう一台、直介の機が並んでいた。
「もう、隠さなくて、いいんですよ」と直介は言った。
「ええ」と、綾は答えた。「もう、隠しません」。
外の山ぎわで、北へ帰る鶴の群れが、ひとすじ、白い列を空に引いて飛んでいった。物語の鶴は、見られたら去ったが、——綾は、見られたあとに、もう一度、戻ってきた。
了