第四話
ホントのカチカチ山
仕返しは、どこまでが正しいのか。
いちばん「こわい」昔話を、科学で見つめ直す。
原作
むかしむかし、畑を荒らす一匹の狸。
誰もが知っているあの物語を、まずはそのままで。
むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんが、山のふもとで小さな畑を耕して暮らしておりました。
ところが、その畑に、一匹の悪い狸(たぬき)が毎晩のようにやってきては、まいた種を掘り返し、作物を食い散らかしていきます。おじいさんは困りはて、とうとう、わなを仕掛けて狸を捕まえました。
「これで、ひと安心じゃ」。おじいさんは狸を家の梁(はり)に縛りつけ、その日は山へ芝刈りに出かけていきました。
留守になった家で、狸はおばあさんに、猫なで声で言いました。「おばあさん、お餅つきを手伝いますよ。この縄をほどいてくだされば、いくらでも働きます」。やさしいおばあさんは、つい、ほだされて縄をほどいてやりました。
ところが、自由になったとたん、狸は本性をあらわしました。おばあさんをさんざんにひどい目にあわせ、家じゅうを荒らしまわって、悠々と山へ逃げ帰ってしまったのです。
夕方、芝刈りから戻ったおじいさんは、荒らされた家と、倒れて泣いているおばあさんを見て、がっくりと膝をつきました。「なんということを……」。
その様子を見ていたのが、おじいさんと仲よしの、一匹の白うさぎです。「おじいさん、その狸、わたしが懲らしめてやります」。うさぎは、そう約束しました。
次の日。うさぎは、何くわぬ顔で狸をさそい、二人で山へ芝刈りに出かけました。帰り道、それぞれが背中に、刈った芝を大きく束ねて背負っています。
狸が前を、うさぎが後ろを歩きます。うさぎは、こっそり火打ち石を取り出すと、狸の背中の芝に向けて——カチ、カチ、カチ。
「うさぎどん、いまの“カチカチ”という音は、なんだい?」と狸が聞きます。「ああ、ここはカチカチ山。カチカチ鳥が鳴いているのさ」と、うさぎは涼しい顔。
やがて芝に火がつき、ボウボウと燃えあがると、今度は「ボウボウという音はなんだい?」「ここはその先の、ボウボウ山さ」。そうこうするうちに、狸は背中に大やけどを負ってしまいました。
翌日、うさぎは「よく効く薬を持ってきたよ」と、狸のやけどに、とうがらしをたっぷり練りこんだ味噌をぬりこみました。狸は、痛いの痛くないのと、転げまわって苦しみました。
それでも、うさぎは手をゆるめません。「狸どん、海へ漁に出かけよう」と誘い、二そうの舟を用意しました。一そうは木の舟、もう一そうは、泥をかためただけの泥舟(どろぶね)です。
うさぎは木の舟に乗り、狸には泥舟をすすめました。「大きいほうが、たくさん魚がとれるぞ」。欲ばりな狸は、大きな泥舟を選び、いさんで海へこぎ出していきました。
沖へ出るにつれ、泥舟はじわじわと水に溶けていきます。「うさぎどん、舟が、舟が……!」。とうとう泥舟はくずれ、狸は海の底へ沈んでいきました。
こうして、おじいさんとおばあさんの仇(かたき)は、討たれたのでした。
——おしまい。めでたし、と言うには、少しばかり、こわい話。
科学ツッコミ
待ってください。
その仕返し、いくらなんでも。
火打ち石に泥の舟、そして過ぎた復讐。物理・化学・生物・社会の観点から、容赦なく検証する。
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物理
火打ち石の「カチカチ」で背中の芝に火がつき、しかも気づかない?
うさぎは火打ち石を打って、狸が背負った芝の束に火をつけます。狸は「カチカチ」という音には気づくのに、自分の背中が燃えていることには、しばらく気づきません。これは可能なのでしょうか。
検証
火打ち石は、硬い石と鋼(はがね)を打ち合わせ、削れた鉄の微粒子が空気中で燃える火花を、「火口(ほくち)」と呼ばれる燃えやすい繊維に移して火種をつくる、れっきとした着火法です。乾いた芝(枯れ草)は火口に向いた素材ですから、火がつくこと自体は十分にありえます。
ただし「カチカチと打つだけで即・芝が炎上」とはいきません。火花を火口で受け、息を吹きかけて少しずつ育てる手間が要ります。物語のうさぎは、なかなかの着火の腕前です。
一方、「背中の火に気づかない」のは、やや無理があります。背中にも熱や痛みを感じる神経は通っていて、燃え広がれば熱で分かるはず。ただし、大きな荷を背負っていると荷と背中のあいだに距離があり、燃え始めの小さな火や煙には気づきにくい、ということは起こりえます。
※ 「カチカチ」という小さな音への違和感を、狸は「カチカチ鳥だ」のひと言で打ち消されてしまった。小さな“おかしいな”を見過ごすと、背中が燃えるまで気づけない——これは案外、現代の教訓でもあります。
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化学・医学
やけどの薬として「唐辛子入りの味噌」をぬる。これ、治療になっている?
うさぎは、狸のやけどに「よく効く薬」と称して、唐辛子をたっぷり練りこんだ味噌をぬりこみます。これは、手当てとして正しいのでしょうか。
検証
まったく正しくありません。唐辛子の辛み成分カプサイシンは、皮膚や粘膜にある「熱さ・痛みを感じるセンサー(受容体)」を直接刺激します。やけどで皮膚のバリアが壊れたところに塗れば、しみて激痛が走るうえ、傷の回復をさまたげます。
味噌をはじめ、油やアルコール、民間療法のあれこれをやけどに塗るのも禁物です。汚れや雑菌で感染の危険が増し、あとで医師が患部を診るときにも邪魔になります。
やけどの正しい手当ては、まず「すぐに・長く・流水で冷やす」こと。痛みがやわらぐまで(目安として20〜30分)冷やし、清潔な布でおおって、範囲が広い・水ぶくれがひどい場合は医療機関へ。うさぎの「薬」は、治療どころか、二度目の攻撃です。
※ つまりカチカチ山のうさぎは、やけどの応急手当てとは正反対のことをしています。良い子は決してマネをしないように。
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物理
泥をかためただけの「泥舟」。そもそも浮くのか、本当に溶けて沈むのか?
物語のクライマックス、狸が乗るのは泥をかためた泥舟。沖へ出るにつれ溶けていき、最後は沈みます。泥の舟は、どんなふるまいをするのでしょう。
検証
舟が浮かぶかどうかは「平均密度」で決まります。舟の形が中に空気をたっぷり抱えこみ、舟と空気をならした密度が水(1.0 g/cm³)より小さければ浮く。鉄の船が浮くのと同じ理屈で、泥でも、うまく成形して空気を抱えられれば、最初は浮かびます。
問題はそのあとです。乾いた泥や粘土をかためただけのものは、水につかると外側からだんだん水を吸い、ふやけて、形がくずれていきます。形がくずれれば、抱えていた空気が逃げ、水が入りこむ。こうなると平均密度は一気に水を超え、沈みます。
物語の「沖へ出るにつれ、じわじわ溶けて沈む」という描写は、泥という素材のふるまいとして、実はかなり理にかなっています。木の舟が沈まないのは、木そのものが水より軽く、形もくずれないからです。
※ うさぎは、狸が「大きいほうが得だ」と欲ばる心まで読んでいた。崩れる舟を、見た目の大きさで選ばせる——カチカチ山でいちばん怖いのは、火でも泥でもなく、うさぎの知恵かもしれません。
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生物
狸は人の言葉を話し、化け、悪だくみをする。実際のタヌキは?
畑を荒らす悪知恵、おばあさんをだます弁舌、人間さながらのふるまい。物語の狸は、ずいぶん人間くさい生き物です。
検証
実在のタヌキ(ホンドタヌキ)は、イヌの仲間の、比較的おとなしい雑食の動物です。畑の作物や果実を食べることはあり、農業の害獣として扱われる地域もありますが、「悪意をもって荒らす」わけではなく、ただ食べやすい餌を食べているだけ。
日本では古くから、タヌキやキツネが「人を化かす」存在として語られてきました。これは、夜行性で姿をとらえにくいこと、決まった場所に糞をする「ためぐそ」など、不思議に見える習性が想像をかき立てた結果と考えられています。実際に変身したり、言葉を話したりはしません。
一方のうさぎも、本来は植物を食べるおとなしい動物で、計画的に他者を罰するような行動はとりません。カチカチ山の動物たちは、人間の「ずるさ」や「正義」を、動物の姿を借りて演じている——いわば役者なのです。
※ 動物に善悪の役を振るのは昔話の常套手段。おとなしいタヌキにとっては、ぬれぎぬもいいところです。
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社会・歴史
やけどを負わせ、しみる薬を塗り、最後は溺れさせる。この仕返し、重すぎないか?
カチカチ山は「日本一こわい昔話」とも言われます。なぜ、これほど容赦のない物語が、子ども向けの昔話として語り継がれてきたのでしょう。
検証
古い形のカチカチ山は、いまの絵本よりも、さらに残酷でした。狸がおばあさんを手にかける場面まで描かれ、うさぎの仕返しは、その仇討ちとして語られていました。「悪には、これほどの報いがある」という、強い見せしめの物語だったのです。
- やわらげられてきた結末:時代が下るにつれ、残酷な描写は少しずつ削られました。明治以降の教科書や絵本では場面が整理され、戦後の版では、狸が死なずに「こりて改心する」結末も生まれています。
- 文豪による問い直し:太宰治は『お伽草紙』のなかでカチカチ山を翻案し、うさぎを残酷な少女、狸を不器用な男に見立てて、「罰の物語」をまったく別の角度から描き直しました。
- 同じ話が、社会を映す:一つの物語が、その時代の感覚に合わせて書き換えられていく。カチカチ山は、昔話が“生きている”ことを示す好例です。
※ 「やられたら、やり返す」の連鎖は、どこで止まるのか。過剰な復讐をどう扱うかは、千年語られても答えの出ない、むずかしい話。だからこそ、次のパートでは別の終わり方を試してみます。
以上、5つの科学的ツッコミを入れてみた。まとめると——火打ち石で枯れ芝に火はつくが背中の火に気づかないのは少々無理があり、唐辛子味噌はやけど治療の正反対、泥舟が溶けて沈むのは素材として理にかなっており、狸もうさぎも本来はおとなしい動物、そしてカチカチ山は時代ごとに残酷さをやわらげながら語り直されてきた。
では、これらを全部「現実」に落とし込んだら、カチカチ山はどんな話になるのか。「仕返し」ではない終わり方を、次のパートで出す。
リアル版
終わらせた、本当のこと。
現代日本、山あいの小さな集落。お年寄りを狙う「狸」と、その小さな違和感を見過ごさなかった人の物語。
一 畑に来た男
山あいの小さな集落、柴ノ谷(しばのたに)。柴田耕作(しばたこうさく)は八十一歳、妻のミネは七十八歳。子どもたちは街に出ており、二人は小さな畑と、数本の梅の木を守って暮らしていた。
ある春、一人の男が訪ねてきた。人当たりがよく、よく笑い、よく働く。「役所から委託されて、お年寄りのお宅の見守りと、畑の害獣対策を回っているんです」と男は言った。
男は何度も足を運んだ。重い米袋を運び、屋根の様子を見てやり、世間話の相手をした。耕作ははじめ警戒していたが、その愛想のよさに、だんだんと気をゆるしていった。ミネは「いい人が来てくれた」と、すっかり喜んでいた。
二 小さな“カチ”
けれども、耕作の胸の奥では、ときおり、小さな音が鳴った。
役場に用があったとき、それとなく尋ねてみると、「そんな委託の事業はやっていない」と言われた。胸の中で、カチッ、と鳴った。男にそう伝えると、「ああ、あれは町ではなく、県の外郭団体のほうでして」と、よどみなく答えが返ってきた。
男は、会社の名も、電話番号も、はっきりとは教えなかった。名刺をもらおうとすると「切らしておりまして」と笑う。そのたびに、耕作の胸で、カチッ、カチッ、と鳴った。
それでも、こんなに親切にしてくれる人を疑うのは申しわけない——耕作は、そのたびに、小さな音を自分で打ち消した。物語の狸が、背中の「カチカチ」を「鳥の声だ」と言われて信じこんだように。
三 留守の日
その年の秋、耕作は街の病院で、一日がかりの検査を受けることになった。
耕作が家を空けたその日、男はやってきた。まるで、耕作がいないことを、知っていたかのように。
男はミネに言った。「裏の納屋の柱が、もう危ない。今日じゅうに直さないと、冬の雪で倒れます。費用はあとで戻ってくる給付金でまかなえますが、手続きのために、まず手付金を今日、お預かりしないといけないんです」。
やさしいミネは、せかされるまま、簞笥(たんす)の引き出しから、二人の蓄えの入った封筒を取り出した。そして、よく分からないまま、差し出された紙に判を押した。
夕方、耕作が帰宅すると、家の真ん中で、ミネがぺたりと座りこんで泣いていた。封筒は空っぽだった。判を押した紙は、ありもしない工事の、法外な契約書だった。男の電話は、もう、つながらなかった。
四 うさぎ
途方に暮れた二人に、集落の民生委員が、町の消費生活センターを教えてくれた。
相談に応じたのは、宇佐見はる(うさみはる)という、二十代の若い相談員だった。小柄で、声のやわらかな人だった。耕作は内心、こんな若い人に何ができるだろう、と思った。
けれど宇佐見は、ねばり強かった。「やり返すこと——復讐ではなく、ちゃんと終わらせましょう」。そう言って、契約書を調べ、ミネの記憶を一つひとつ書きとめ、男の人相をまとめ、つながらない電話番号を控えた。
宇佐見には、見えていた。男のやり口には、はっきりした「型」があった。地域を変え、名前を変え、同じ手口をくり返す——常習の詐欺だ。宇佐見は警察と弁護士に話をつなぎ、近くの町で同じ被害にあった人たちを、一人、また一人と捜し出した。みな、小さな“カチ”を感じながら、口に出せずにいた人たちだった。
五 泥の舟
男のすべては、泥の舟だった。
会社の名も、肩書きも、役所の委託も、何もかもが、かためた泥でできていた。見た目は立派でも、芯がない。そこへ、いくつもの証言と、契約書と、記録という「水」が注がれていく。泥は、外側から、ゆっくりと崩れはじめた。
やがて男は逮捕され、いくつもの偽名と、被害の全体が明るみに出た。柴田夫妻の契約は取り消され、蓄えも、いくらかは戻ってきた。
「昔話なら、ここで狸を泥舟に乗せて、海に沈めるところです」と宇佐見は言った。「でも、沈めるのは舟であって、人ではありません。あの人がやってきたことが、泥の舟だったんです。水につければ、ちゃんと崩れる」。
帰りぎわ、宇佐見は耕作とミネに、こう言い残した。
「胸の中で小さく『カチッ』と鳴る音を、『鳥の声だ』と思って、消さないでください。あの音は、火打ち石とおなじ。あなたを守るために、鳴っているんです」。
翌年の春、柴田の家の梅は、変わらず花をつけた。集落の公民館では、宇佐見を招いて、小さな勉強会が開かれるようになった。耕作はいま、胸の“カチ”を、もう打ち消さない。
火も、泥の舟も、もう要らない。いちばんこわい昔話は、誰も沈めずに、ちゃんと終わった。
了